音楽雑学

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ギターやボーカルにまつわる雑学のページ

ソフトロック

ギター

Soft Rockは音楽ジャンルではなく当時の社会状況を止められる役割を背負っていた。
そのため代表するグループは元祖シチュエーション、ハーパーズbizarre、スパンキーアンド アワギャング、クラシックスフォーからバード・バカラックを歌うA&Mのアーティスト、そしてコーラスグループやジャズ系の人たちまで幅広い。

ベトナム戦争のディスカスがアメリカの若者にとってその逃げ道はドラッグとそのBGMであるサイケデリックサウンドであったが、この間を縫って安らぎを求めるかのようにソフトなサウンドも支持されていた。アコースティックなフォーク、ノスタロジックなサウンド、美しいコーラスとその種類は様々。

またロックとは無縁だった大人のアーティストがやっとロックビートを取り入れ始めコーラスグループやインストゥルメンタルのアルバムがヒットし始めたのもSoft Rockの流行に拍車をかけた、これはロックを聴いて育った、かつての若者向けの音楽でもあり、これまでのムードミュージックとは違った扱いをされた。当時Easy Listeningという新しい言葉が生まれたがこれと微妙な関係を持っている。ただし70年代に入ると一般のポップスとの境もなくなりあえてSoft Rockという言葉を使うこともなくなった。しかし当時のSoft Rock系のヒット曲はメロディーも美しく、その後のスタンダード化した曲も多い。

サイケデリック・ロック

精神科医のエイチオズモンドが、LSDの大量投与による人格解放の画期的療法として考案したのがサイケデリックセラピーであった。
言葉のそもそもの由来は医師の精神療法であったのだ。まもなくLSDは医者の手を離れ、芸術家たちの想像力を高めるせきのクスリともてはやされるようになる。

1963年メキシコにサイケデリック研究センターを立てると、ヒッピーたちが集まってくるようになり、LSDは若者の間に広まった。結局彼はメキシコ成功されアメリカに戻り60年代後半サイケデリック文化は全米を席巻する。特にヒッピー発祥の地ヘイトアシュベリー地区のあるサンフランシスコはその中心地であった。サイケデリック・ロックの特徴は相互関連のない複数のモチーフが脈絡なく現れること、逆にひとつのモチーフに執拗にこだわること、音を異常に弱めたり増幅すること、インドや東洋の音楽からプラドクラシック等まであらゆる音素材を少し使ってみること、歌詞もしばしば内的破戒的色彩的で、ときには意味不明でありミュージシャンが酩酊状態に近いの状態で演奏することとのイメージが先行しているが、当時のロックには多少多かれ少なかれこのような傾向が見られる。客席に言えば逆説的にいえば、従来の既成概念を打ち崩すのには幻覚剤は一役買ったと言える。

ニューロック・アートロック

サイケデリックムーブメントを得た数多くのミュージシャンがさらにプログレッシブな音楽を制作、68年ごろには画期的なアルバムが次々と発表リスナーも単純なロックより難解なサウンドを適当にミックスされた音楽を好んで聴く風潮となっていた。

おかげでアンダーグラウンドで活動していたグループも一手に注目を浴びることとなりロックシーンは混沌としたものになっていく。
その思考やサウンドの違った数多くの新しい音楽を日本のレコード会社はニューロックやアート・ロックとしてひとまとめにして60年69年には大キャンペーンを行った。ジミヘンドリックス、クリーム、Led Zeppelin、ヴァニラ・ファッジ、iron Butterfly、BS & T、シカゴ、アルクーパー、ジャニスジョップリンとがこのシリーズの名の元に売り出された。そして日本未発売だったtraffic、ブルースプロジェクトなど入力の創始者たちの過去のアルバムやこの時にスーパースター化したクラプトン、ジェフベック、ジミーペイジが在籍したヤードバーズなどが販売されたりした。しかし何十年を過ぎてる素敵な素材やレイドバックミュージック、逆に正確なグラムロックの弾頭によりニューロックという言葉は使われなくなっていった。

ジャズ・ロック

65年の10月、ラムゼイルイストリオのジーンクラウドが全米チャートの6位となった。これはチャートとは無縁なジャズ界では驚くべき現象である。ゴーゴー風の実況録音盤のそのレコードはジャズロックと呼ばれ、この成功にラムゼイルイスはよりポップでソウルなサウンドに変化、このトリオを抜けた2人のメンバーやyoung Holt limitedを結成、69年1月には(ソウルフルストラット)を全米三位まで送り込んでいる。その間レイ・ブライアン、レス・マッキャンなどがこのポップなジャズで人気を得ている。しかしその後ジャズロックは別の集団の音楽を示すようになる。60年代末から出現したホーン・セクションを多用、ジャズのフィーリングを持ったバンドが人気を得てきたからである。

blood sweat & tearsはセカンドアルバムから立て続けに3曲のシングルヒットを放ち、そのアルバムのプロデューサー、ジェームズダブルカル使用はもっとロック色の強いシカゴをデビューさせ成功させる。これによりジャズロック、グラスロックというイメージが定着。その後はプログレ志向の強いイギリスのグループとも加わり10人以上の大人数バンドが増加、アメリカではアイズ・オブ・マーチ、スイス、イギリスからはCSS、イフ等が出現した